お久しぶりの記事です。どうもこんにちは。Lovelyzがフルアルバムを引っさげてカムバしたということで、WoW!のコンセプトについて思うことをざっくばらんに書き留めておきたいと思います。やっぱりそこはLovelyz。今回も一筋縄ではいかなかった。
少しおさらいしておくと、WoW!は前作『A New Trilogy』のDestinyから始まった新3部作シリーズの2作目となります。それで、DestinyとWoW!を較べて、衣装や雰囲気が全然違うから「どこが3部作なの?」「コンセプト変わりすぎ」「生存戦略のための変身だから無罪」とか言われているけれど、はたしてそうなんでしょうか?
■WoW!における自己言及
WoW!のMVを見ていると、誰の目にもわかる形で今までのLovelyzのMVに登場した小物やイメージ、また表現上の創作物に留まらず、ファンが撮った写真や応援グッズまでも公式のMVに散りばめられています。いわば、現実に存在し触れることのできる「アイドル」としてのLovelyzの断片が、Lovelyzの作品世界に持ち込まれている。これはけっこうな事件です。
「この歌詞はアイドルとファンの関係を歌ったものだ」云々という、およそ何にでも当てはめて言えてしまう言説の凡庸さに私はいつも苛立ってしまうほうなのだけど、ここまで全面的に表現されているのに、WoW!に「自己言及」を見ないというのもまた意固地な態度だと思うんですよ。
WoW!には、Lovelyzによる自己言及というコンセプトが「二次元」をモチーフとして展開されています。そしてその「二次元」には、Lovelyzが紛れもなく「アイドル」であることと、新3部作の鍵となる「人形」が重ね合わされたうえで、現在のLovelyzの身振りが示されてると思うのです。
■空間としての「聖域」から「特別な二次元」へ
恋は特別な二次元
深さの計り知れないミステリー
思い描いてきたすべてが
何もかもうまくいく気がするんだけど
恋は不思議な二次元
涙でにじんでいくストーリー
あなたの手をつかんでみたいのに
今回のWoW!で中心的なモチーフとなっているのは、見ての通り「二次元」です。「あなたと私の距離感が消えてしまう」と歌うと同時に世界はバグを起こしたようにフリーズし、私たちは「二次元」の世界へ誘われていきます。ポップな装いながらも、世界は一瞬にして二次元に変換される。もう少し細かく言えば、一瞬だけ変換の痕跡を残したまま、時にはTVや額縁の中に吸い込まれながら、それと意識する間もなく、すぐに世界は動き出します。いかにも危険な魔法にぞくぞくしますね。
ここでちょっと思い出して欲しいのは、かつてのLovelyzの少女3部作では、密閉された「空間」が聖域(アジール)として機能していたことです。*1「空間」の内部にいながら、外の世界と接する界面のわずかな隙間を通して、少女たちは外の世界(異界)と交信していました。そこには古典的で馴染み深い、エス的な少女世界がありました。
ところが新3部作のWoW!では、その聖域は「特別な二次元」へと移行しています。ここで完全に移行したとまでは言わないけれど、少なくとも「特別な二次元」としての聖域が主題化され、そこに今回のWoW!の少女たちがいる。ただ「特別な二次元」は、もはや囲われた「空間」ではないのだから、厳密には聖域とは言えないかもしれません。むしろこう言いましょう。WoW!の少女たちは「境界」そのものにいると。*2
まるでMVに登場するあの「動く紙人形」を、私たちと接するレイヤーの最前面に押し出すようにして、WoW!の少女たちは境界面で増殖しながら戯れています。少し寂しいけれど、ここにはかつてのコクーン(繭)に包まれた少女たちはいないのです。
■「二次元」と「人形」と「アイドル」と
WoW!の世界を見ていく前に、また少しおさらいしておきましょう。
「人形」とは、もちろん新3部作のプロローグを飾った印象的なあの曲です。
わかっています 私に似たあいつを
わかっています あいつに似ていた私の姿
TVの中で踊るあいつを
私は立ち止まったまま眺めます
「TVの中で踊るあいつ」と「あいつに似ている私」。このときすでに、少女は分裂していました。TVの中で踊る「あいつ」とそれを立ち止まったまま眺める「私」。その私も同じく人形に似ている存在でした。だから、この歌を現実の「アイドル」であるLovelyzが歌うとき、作品世界と現実世界がショートして、現実の不穏さに介入されながら歌わなければならなかったと思うんですよ。
WoW!では、その深淵で不穏だったはずの「人形」がバグを起こしたように語り始めます。「人形」という境界面に、現実世界と結びついた「アイドル」がぴったりと張り付き、二次元とも三次元とも言えなくもない「動く紙人形」となって、かつての部屋の中を撹乱するように行き来している。
「人形でありアイドルである私」という視点から、MVと歌詞に解釈を交えて追っていくと、たとえばこんなストーリーが描けるかもしれません。
何かの拍子にうっかり勘違いをして恋をしてしまったなら、その瞬間に現実感は薄れ、恋をした者は「二次元」の世界に取り込まれてしまう。二次元のこちら側の世界に取り込んで一緒になれたのだから「何もかも上手くいく気がする」んだけど、実はそうじゃない。そこには、「涙でにじむストーリー」があるだけ。次元を、あるいは境界を越えさえすれば良いのではない。私の望みはまた別にある。大まかにいって、WoW!にはそういう機微があります。
WoW!の少女たちは、さらにこう言うかもしれません。私たちが見せてきた「清純な少女」に惹かれて恋をしてしまっているのなら、それは「現実感が消えて」しまっているんだよと。そうじゃない、そうしたら私の声も届かないし触れることもできない。それでは、私たちからは出会えないんだと。届かないし触れることができないことを、WoW!の少女たちは哀しくも鋭く知っています。
「人形」と「私」に分裂し、「人形」を二次元に仮構することで、アイドルである「私」の内的な語りが聞こえてきます。こんなふうにして、WoW!の少女たちは、アイドル「Lovelyz」のメタの階層を上がっていく。
■出会えない境界の少女
声も届かないし、触れることもできない二次元の少女たちは、歌詞の中では風船によって二次元を超えようとしていました。あるいは「私の心を綺麗に折って立てたなら/この次元を超えてちょっとずつちょっとずつあなたへ」と、あの動く紙人形のように、平面を立体に、二次元を三次元に変身させるメタファーが使われています。風船は「Hi」においても境界を超えていくメタファーだったけれど、かつてとはニュアンスが違ってきてると思うのです。
WoW!においては、もはや超えるべきなのは空間ではなく、次元です。境界上にいるWoW!の少女たちは、あたかもネットワーク上にいる少女であるかのように、自分の気持ちを包んだり折ってしのばせりして、そっと既存の通信回路にのせて届けようとする。*3 それは「こっちにPOP」「そっちにPOP」と、アラートのように現れるのでしょうか。しかしその一方で、私たちが出会い損ねる少女たちは、私たちの幻想の分だけ容易に増殖し、偏在していきます。「あの子かわいい」「この子かわいい」と。*4 では、私たちはどうやってアラートに気づくことができるのでしょう。
ここで重要なのは、あくまで少女の側から超え出ようとしなければ私たちは出会えない、とされていることです。私たちは、デフォルトではWoW!の少女たちと永遠に出会い損ね続けるしかありません。ポップな雰囲気とは裏腹に厳しく潔癖な態度です。
いずれにしても、WoW!の少女は、自分たちへ向けられた「人形=アイドル」としての欲望を、ちょっとの毒をもってかわいくポップに、不気味に受け流していきます。あのダサいともっぱら評判の動く二次元としての紙人形は、きれいであったりおしゃれであったりする静止画にとどまることで幻想を延命することもなく、私たちが向ける欲望の視線をキッチュにし、笑いながら受け流すのです。
■運命に挑戦するLovelyz
思えば、Ah-Chooでの少女は幽霊でした。幽霊としての少女は、アチュ!というくしゃみによって、見えない存在ながらも、その存在の気配を漂わせていた。またDestinyの月の少女たちは、日食のダイヤモンドリングによって自らの姿を、たとえ真っ黒な影だったとしても、一瞬だけ見せたいと願った。
それに比べて、WoW!の少女たちは、はじめからそこに"見えて"いる。でもそれは特別な仕方で見えているだけ。彼女たちは自分たちが別世界にいることを知っていて、だからこそ次元を超えようと願う。何よりも声を届けたいと願い、触れたいと願うから。作られた「この世界」にいながら、さらには超え出ることも作品世界のなかで誰かに要請されていながら、なお超え出ようとする。
アイドルである現実のLovelyzにとって、それは厳しい挑戦に他なりません。これまでも「清純派」として一括りにされ、時にぶりっこと言われ、その作品世界の随分手前で「二次元」に吸い込まれていきました。こう書いている私にしても、それに加担してきたし、いまもより厄介な仕方で加担しているとも言えるのです。
Destinyでは自らの運命をもぎとることを願ったけれど、彼女たちはWoW!でも、別のしかたで自らの運命に挑戦する。現実のアイドルとしてのLovelyzと、作品世界の少女たちが極めて自覚的に交差されたのが、WoW!だったのではないでしょうか。
今回のアルバムでは、グループ内ユニットとしての曲を多く取り入れました。また、スジョンは作詞に参加し、ベビソルはラップメイキングもした。「The」という3人(ミジュ・スジョン・イェイン)の曲では、今までになかったロック調の歌唱に挑戦して、新たな声と魅力をみせています。
また、WoW!のステージパフォーマンスでは、群舞として見せながらも、クセを含めた個々の動きをそのまま大事にして踊ってるように見えるんですよね。だって、あんなに生き生きと首を動かして楽しそうに踊るミジュは見たことがないもの。
WoW!でのLovelyzは、「人形=アイドル」であることから、きわめて真っ当に、個性をもった個人へと焦点が向け直されているのではないでしょうか。
以前ある記事で、昨今のガールズグループについて、フェミニズムの観点から、その主体性を巡って批判がなされたことがありました。その記事はこんなふうに結ばれています。*5
「退行の中でも誰かは新しい時代を夢見ているだろう。 自分の声を出して、本当に踊って、"美しい"でなく"すばらしい"という歓呼を聞くいかなる日を。」
いまWoW!をリリースしたLovelyzは、作品世界に色濃く「作られた少女性」を持ち込みながら、その残酷さに最も自覚的で、かつ最も果敢に解体しようとしています。
それでは、出会い損ね続けるしかない私たちは、いったい何ができるのでしょうか。せめて、彼女たちの周りのそこかしこで不意に出会う、言葉にならざるWoW!という感嘆を、耳をすましてひとつ残らずかき集めることしか、私には思い浮かばないのです。
170305 유희열의 스케치북 러블리즈(Lovelyz) you are not alone
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*1 Lovelyz試論〜少女たちの聖域の境界で http://apandamo.blogspot.jp/2015/04/lovelyz.html
*2 さやわか『キャラの思考法』所収「笑わない少女は私につぶやく」における議論を参考にしています。
「黒瀬が指摘したように、彼女は<あちら>にも<こちら>にもいない。境界に空間は存在しない。境界に生きる彼女から見て、たとえば私は別の世界にいる何者かだ。彼女は別の世界があることを知っている。だから彼女はこちらを向いて、何かを見ている。しかし空間を知らない彼女は私を理解できない。だから私と視線を交わしているようでありながら、実は彼女は私を全く認識してはいない。しかしなお私を見つめ続けようとする。そういう表情である。」(p.92-93)
*3 韓国のネット民も「トンネリング」という解釈を行ったりしている
*4 加えてこのセリフは、他のアイドルに向けて発せられる賞賛への揶揄も含んでいそうですね
「昨今の女性イメージ消費傾向は結局主体性問題で還元される。 ガールズグループは男性の欲望が徹底的に投射されなければならないので、主体性が許されない対象化の空間に転落した。"国民の初恋"あるいは"国民の妹"というタイトルが、女性芸能人にオブジェクト性を内面化する戦略として作用する世界では、ガールズグループ市場も、仕事ができて自己主張がある女性ではない、花のように展示しておいて鑑賞できるセクシーだったり純粋な女性像を集める場に過ぎない。 しかしそれのどこがガールズグループとして追求してこそ当然な"本業"なのだろうか?退行の中でも誰かは新しい時代を夢見ているだろう。 自分の声を出して、本当に踊って、"美しい"でなく"すばらしい"という歓呼を聞くいかなる日を。」
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